
月末が近づくと、経理部門は請求書の入力と突き合わせ作業に忙殺され、他の業務が一切手につかなくなる。一方で、コールセンターでは「入金したはずなのに督促が来た」「現在の請求額を知りたい」といった問い合わせに対し、オペレーターが即答できず、保留や折り返し対応に追われている──。こうした光景は、多くの企業で見られる「あるある」ではないでしょうか。
経理と顧客対応(CS)は、組織図上では離れていますが、業務プロセスにおいては「お金と情報の流れ」で密接に繋がっています。しかし、システムやデータが分断されているために、両部門ともに疲弊し、結果として顧客体験を損なっているケースが少なくありません。本記事では、中堅BtoB企業であるA社が、AI-OCRとCRM(顧客関係管理システム)を連携させることで、いかにしてこの悪循環を断ち切ったのか、その改善の軌跡を詳細に追っていきます。
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A社が抱えた「分断」と顧客体験の損失
多くの企業において、バックオフィスの効率化とフロントオフィスの顧客満足度向上は、別々の課題として扱われがちです。しかし、中堅企業A社で起きていたのは、まさにこの二つが複雑に絡み合った「複合的な機能不全」でした。本章では、プロジェクト開始以前のA社がどのような状況にあり、なぜ現場が疲弊していたのか。その実態を、現場の声とともに紐解いていきます。
A社の概要と課題
A社は、法人向けに機器の保守サービスやクラウド型の継続課金サービスを提供する、創業30年の中堅BtoB企業です。全国に複数の営業拠点を持ち、取引先は数千社に及びます。
事業の拡大に伴い、請求書の処理件数は右肩上がりに増加していました。A社の特徴として、取引先ごとの契約形態が多様であることが挙げられます。毎月定額の請求もあれば、従量課金、スポットでの修理費用など、請求項目は多岐にわたり、取引先から送られてくる支払通知や請求書の形式もバラバラでした。
A社では数年前にCRMシステムを導入しており、顧客の基本情報や対応履歴自体はデジタル化されていました。しかし、決定的な欠落がありました。それは「請求・入金データ」と「顧客対応画面」がシステム的に遮断されていたことです。請求管理は独立した販売管理システムと、現場で継ぎ足された無数のExcelで行われており、CRMとは連携していません。この「情報の分断」が、月末の経理部門を追い詰め、コールセンターの顧客対応を停滞させる主因となっていました。
悲鳴を上げる現場
課題の深刻さを理解するために、当時の各部門の担当者が漏らしていた「生の声」を聞いてみましょう。これらは、組織のあちこちで発生していた「詰まり」を象徴しています。
まず、最も負荷がかかっていた経理部門です。
- 経理(担当者):「月末は入力と突合だけで一日が終わります。紙で来るもの、PDFで来るもの、メール本文に書かれているもの……形式がバラバラで、全て手入力です。判断が要る『例外』、たとえば金額が合わないとか、名義が違うといった案件が後ろにどんどん溜まっていくんです。処理しきれず、残業が当たり前になっています」
- 経理(リーダー):「過去に一度、入力ミスで大きなクレームになったことがあり、差戻しが怖いので『全部目でチェックする』という運用をやめられませんでした。ダブルチェック、トリプルチェックで工数ばかりが膨らみ、本来やるべき分析や改善業務には全く手が回りません」
その影響を直接受けていたのが、CS(カスタマーサポート)・コールセンターでした。
- CS(オペレーター):「お客様から『入金状況を確認したい』と言われても、画面には何も表示されません。入金状況の問い合わせは、まずお客様を保留にし、経理に内線で聞くところから始まります。でも月末は経理も電話に出られないほど忙しい。板挟みです」
- CS(SV):「『確認して折り返します』が続くと、顧客の温度が一気に上がります。『入金状況も把握してないの?』とお叱りを受けることも日常茶飯事でした。オペレーターの心理的負担も限界に近かったです」
営業部門もまた、この分断に足を引っ張られていました。
- 営業(マネージャー):「契約更新の話をしたいのに、未払いがあるか確認してからでないと動けません。経理に確認を依頼しても返答待ちで数日かかることもあり、その間に他社に切り替えられてしまう……という機会損失が起きていました」
システムを管理する情報システム部門は、根本解決の難しさに頭を抱えていました。
- 情シス(担当):「各部署が自分たちの使いやすいようにExcelマクロを作り込んでしまい、Excelが増え続けていました。誰のファイルの、どのデータが『正』なのか分からなくなっていました。属人化の極みです」
課題の整理:4つの「分断」
ギグワークスクロスアイティのコンサルタントが調査に入り、A社の状況を分析した結果、表面的な「忙しさ」の裏にある本質的な課題は、以下の4つの「分断」に整理されました。
- 1. 入力の分断:受領経路(郵送、メール、FAX)と形式(紙、PDF、画像)が混在しており、それぞれの処理フローが統一されていません。結果としてシステムへの転記作業が連鎖し、入力完了までのリードタイムが長期化していました。
- 2. 例外の分断:振込依頼人名の表記ゆれ、注文番号の欠損、金額の差異といった「イレギュラー」な事象に対する判断基準が明確化されておらず、ベテラン担当者の「記憶」と「勘」という人依存の状態になっていました。
- 3. 情報の分断:これが今回の最大のボトルネックです。請求・入金情報が経理システムの中に閉じ込められ、CRMに連携されていません。そのため、顧客と接する最前線のCSや営業が、即座に回答するための武器を持てない状態でした。
- 4. 統制の分断:原本となる証憑の管理、過去データの検索、監査対応などが、個人のPCや物理的なキャビネットに散在しており、組織としてのガバナンスが効きにくい状態でした。
ゴールは「入力削減」の先にある
この状況から脱却するために必要なのは、単に「AI-OCRを入れて入力を自動化する」ことだけではありません。手入力の工数を減らすことは重要ですが、それだけではCSや営業の課題は解決しないからです。
今回のプロジェクトの真のゴールは、請求情報を「顧客データ」としてリアルタイムに参照できる状態を作り上げることです。
- 経理:ルーチンワークから解放され、判断が必要な「例外」だけに集中する。
- CS/営業:顧客のお金に関する状況をその場で把握し、即答する。
『精度より設計』で定着を狙った導入プロセス

多くのDXプロジェクトが失敗する最大の要因は、ツールの機能を過信し、現場の業務プロセスを置き去りにしたまま導入を進めてしまうことにあります。特にAI-OCRのような技術導入においては、「読み取り精度100%」を目指そうとしてうまくいかないケースも少なくありません。A社のプロジェクトにおいて私たち最も意識したのは、システムの実装そのものよりも、むしろ「業務設計」と「意識改革」でした。本章では、現場の課題をどのように整理し、新しい運用へと導いていったのか、そのプロセスを追います。
コンサルタントによる徹底的な現状調査
プロジェクトの冒頭、まずは現状を正しく把握するためのヒアリングと調査が行われました。コンサルタントは、経理、CS、営業、情シス、そして管理職に対し、それぞれの視点での「困りごと」を徹底的に言語化していきました。
特に時間を割いたのが「例外の棚卸し」です。なぜ請求処理が止まるのか。その原因を突き止めるため、過去数ヶ月分の差戻し案件や処理遅延のログを分析しました。すると、以下のような典型的なパターンが明らかになりました。
- 差戻し理由:顧客側の社名変更がシステムに反映されていない。
- 表記ゆれ:「カ)エーシャ」と「株式会社A社」の不一致。
- 欠損:請求書に必須となる注文番号の記載漏れ。
- 承認遅延:担当営業への確認が必要だが、営業が外出していて連絡がつかない。
同時に、既存のCRM環境も確認しました。顧客IDの体系はどうなっているか、オペレーターはどの画面をどのような順序で見ているか、履歴データはどのように保持されているか。これらを把握することで、新しい請求データをどこに流し込めば最も効果的かが見えてきました。
3本柱の提言と意識の転換
調査結果を踏まえ、ギグワークスクロスアイティはA社に対し、以下の3本柱からなる改善案を提言しました。
- 柱① 名寄せ設計:AI-OCR導入の肝となる部分です。表記ゆれをシステム側で吸収する辞書機能を整備し、AIが迷った際の「確定ルール」を個人の判断ではなく、明確な運用ルールとして落とし込みます。
- 柱② 例外設計:ここが最大のポイントでした。「全てのデータを人が確認する」という既存の業務フローを捨て、「AIが自信を持って処理したものはスルーし、自信がない『例外』だけを人が見る」という仕組みに変えることです。
- 柱③ CRM導線設計:経理が処理した結果を、CSや営業がCRM上で「迷わず見られる」ように、参照導線を最短化します。クリック数を1回でも減らすことにこだわりました。
この提案に対し、当初、現場からは不安の声も上がりました。しかし、コンサルタントの言葉がその空気を変えました。
- コンサルタント:「AIに100%の精度を求めてはいけません。精度を追う前に、『どこを人が見るか、どこを見ないか』を決めましょう。全件確認を続けていては、業務負荷は永遠に下がりません」
こうして、「精度より設計」という共通認識が形成されました。
プロジェクトチームの立ち上げとキックオフ
改革を実行に移すため、部門横断的なプロジェクトチームが結成されました。
- PM(プロジェクトマネージャー):A社の改革推進室
- 業務代表:経理、CS、営業の現場リーダー
- 情シス:既存システムとの連携仕様策定
- ギグワークスクロスアイティ:PMO、業務設計支援、開発、品質保証(QA)
キックオフミーティングでは、プロジェクトのゴールだけでなく、リスクや進め方についても合意形成が行われました。
- 成功条件:システムの稼働開始ではなく、現場での「定着」をゴールとする。KPIの達成は最終的な評価指標とする。
- 段階導入:全拠点で一斉に切り替えるのではなく、影響範囲の小さい一部の取引から開始する。
- 切戻し:万が一、業務が回らなくなった場合は、即座に旧フローに戻せる準備をしておく。
- 初月サポート:稼働直後の混乱に備え、手厚いサポート体制を敷く。
この場での各担当者の発言は、プロジェクトへの真剣さを物語っていました。
- 管理職:「システムを『入れた』で終わらせてはいけない。現場の業務が変わって、定着するまでを成果とします」
- 情シス:「過去の失敗は、現場に新しいツールを丸投げしたことでした。今回は、現場負荷を増やす仕組みだけは絶対に避けたい」
システム構成の提案と開発
システムの実装フェーズでは、「流れ」と「判断」の自動化に焦点が当てられました。基本的なフローは以下の通りです。
- 入力:請求書(紙・PDF)を受領。
- AI-OCR:内容を読み取りデータ化。
- データ化と紐付け:読み取った情報をA社の顧客IDに自動で紐付け。
- CRM連携:確定データをCRMへ送信し、参照可能にする。
- 例外処理:条件に引っかかったものだけを「確認キュー」に送り、人が処理。
ここで重要だったのが、「例外条件」の定義です。
- 名寄せできない:登録されている顧客マスタと一致しない名称。
- 金額整合が崩れる:小計と合計が合わない、消費税計算が合わない。
- 期限が欠ける:支払期限の記載がない、または過去の日付になっている。
- 振込先が不自然:通常とは異なる銀行口座が記載されている。
開発においては、「変更しやすさ」が重視されました。AIは使い込むほどに学習データの蓄積などで賢くなりますが、業務ルールも変化します。どのような理由で例外となったのかの「ログ」を残し、後からルールをチューニングできる改善サイクルを前提とした設計を行いました。
試験導入と移行計画
いよいよ導入です。しかし、いきなり全開にはしません。まずは特定の事業部、特定の帳票タイプに限定した「試験導入」からスタートしました。
試験運用の期間中、想定外の読み取りミスや、CRM上での表示の見にくさなどを徹底的に潰していきました。
- 移行ステップ:並行稼働期間を設け、新旧の結果を比較 → 問題なければ対象範囲を拡大 → 最終的に完全切替。
- ハイパーケア:稼働初月は、ギグワークスクロスアイティのエンジニアとA社の情シスが常時待機する「問い合わせ窓口」を設置。
この慎重な進め方が、現場の安心感を生みました。
- 現場スタッフ:「いきなり全て任せるのは怖かったですが、『確認』が必要なものだけがリストに残るなら、今やるべき仕事が明確に見えます」
- PM:「切替は一気にやりません。業務を止めずに、走りながら変える設計にします」
こうして、A社は大きな混乱もなく、新しい業務プロセスへと足を踏み入れました。次章では、この変革がもたらした具体的な成果と、劇的に改善した数値指標について報告します。
導入後、『答えられる組織』になった
システム導入から半年。A社の社内風景は、以前とは全く異なるものになっていました。かつて月末のたびに殺気立っていた経理部門には余裕が生まれ、顧客からの問い合わせに追われていたCS部門では、前向きな会話が飛び交っています。
AI-OCR×CRMプロジェクトは、単なる業務効率化を超え、組織全体の「応答能力」を大きく向上させました。本章では、現場で起きた定性的な変化と、それを裏付ける主要KPIの達成状況について報告します。
導入後の変化:現場の景色はどう変わったか
数字を見る前に、現場で働く人々の行動や意識がどう変わったか、具体的なエピソードを見ていきましょう。
最も大きな変化を感じているのは、顧客の矢面に立つCS(カスタマーサポート)部門です。
- CS(オペレーター):「以前は『確認して折り返します』が口癖でしたが、今は『はい、お調べします……入金は昨日の日付で反映されております』と、その場で即答できるようになりました。保留時間が減っただけでなく、お客様から『ありがとう、助かるよ』と言われる回数が格段に増えました」
- CS(SV):「折り返しの電話業務が激減したことで、オペレーターの精神的な余裕が生まれました。結果として、単なる問い合わせ対応だけでなく、『今のプランだと容量が不足しそうですが、上位プランにしませんか?』といった提案型の会話ができるようになりました。会話の質が『説明』から『提案』に変わったのです」
経理部門では、「全件チェック」という呪縛からの解放が大きな変化をもたらしました。
- 経理(担当者):「以前は数千件のデータを全て目で追っていましたが、今はAIが弾いた『例外』だけを見ればいい。集中力が全く違います。単純作業の疲れがなくなった分、複雑な案件の調査に時間を割けるようになりました」
- 経理(リーダー):「システムが『これはおかしい』と判断したもの、つまり判断が必要なものが処理の列の先頭に出てくるようになりました。リスクのある案件を後回しにすることがなくなり、処理の遅延が起きにくくなっています」
営業部門でも、攻めの姿勢への転換が見られました。
- 営業(担当):「外出先からスマホでCRMを見れば、担当顧客の入金状況が一目で分かります。更新時期のお客様に対して、未収の兆候が見える段階で先手で連絡できるようになりました。『未払いがありますよ』と気まずい連絡をするのではなく、『お支払いの件で何かお困りですか?』とサポートの姿勢で入れるようになったのが大きいです」
主要KPIの評価
これらの定性的な変化は、客観的な数値としても明確に表れています。運用ログと現場実感に基づくモデル評価による、導入前後の主要KPIの比較は以下の通りです。(※数値は概数・目安です)
- 直通率(自動登録率):おおむね 75〜80%
- AI-OCRと名寄せロジックにより、全請求書の約8割が人の手を介さずにシステム登録まで完了しています。
- 入力+突合工数:おおむね 70〜80%削減
- 残りの2割(例外)の確認作業を含めても、経理部門が月末の入力作業に費やす時間は劇的に減少しました。
- 入力ミス率:おおむね 1%台 → 0.5%前後
- 手入力によるタイプミスが消滅し、残るミスも人間が判断を誤ったケースのみに限定されました。
- 受領→承認完了リードタイム:おおむね 6日前後 → 2〜3日
- 処理の滞留がなくなり、請求書を受け取ってからシステム上で承認が完了するまでの期間が半減以下になりました。
- CS一次回答率(FCR):おおむね 60%台 → 75〜80%
- 入金・請求に関する問い合わせをその場で完結できるケースが増加しました。
- 折り返し率:おおむね 30%前後 → 10%台
- 経理への確認待ちによる折り返しが大幅に減少し、顧客をお待たせする時間が減りました。
- 社内照会(CS→経理):半減〜3分の1程度
- CSが自分で画面を見て解決できるため、経理への内線電話やチャット確認が激減しました。
- DSO(売上債権回転日数):数日短縮(目安)
- 参考値ですが、請求・入金消込のスピードアップと、営業による未収への早期アクションにより、キャッシュフローの改善にも寄与しています。
成功要因の分析
A社がここまでの成果を出せた要因は、単に高性能なAI-OCRを導入したからではありません。成功の鍵は以下の3点に集約されます。
- 名寄せと例外設計の徹底:「100%の自動化」を目指さず、「全件確認」をやめる勇気を持ったこと。AIが迷う部分だけを人が補完する「人とAIの協働プロセス」を構築した点が勝因です。
- CRM導線の最短化:CSや営業が、日常的に使うCRMの画面から、クリック一つで請求情報を参照できるようにしたこと。わざわざ別のシステムにログインする必要がないため、情報の活用が自然と定着しました。
- ログと週次レビューによる「育成」:導入後もプロジェクトチームを解散せず、例外として弾かれた理由をログで分析し、週次でレビューを続けました。「なぜAIはこれを読めなかったのか?」「なぜこの名寄せは失敗したのか?」を一つひとつ潰し、辞書登録やルール変更を行うことで、システムを自分たちで「育てて」いきました。
A社の事例は、バックオフィスの業務改善が、そのままフロントオフィスの競争力強化に直結することを示しています。請求処理という地味な業務の変革が、顧客体験を大きく変えるきっかけとなったのです。
プロジェクトを振り返って

今回の取り組みの本質は、単なるペーパーレス化や入力工数の削減ではありません。「請求情報を顧客データとして循環させ、全社員が顧客に対して即答できる組織に変える」という、組織能力の変革にあります。
成功のポイントを改めて振り返ります。
- 分断の解消:経理とCSの壁を取り払い、情報を共有資産にしたこと。
- 例外設計:AIに全てを任せず、人の判断を価値ある部分に集中させたこと。
- 定着へのプロセス:現場の声を聴き、小さく始めて育てていったこと。
もし、貴社の現場で「月末の入力作業」や「確認のための折り返し電話」が常態化しているのであれば、それはシステム導入のチャンスかもしれません。最初の一歩は、大きな投資をすることではなく、「例外の棚卸し」を行い、「名寄せルール」を決め、「CRMで誰が何を見るべきか」を議論することから始まります。
小さく試し、止めずに段階的に導入する。その先に、顧客からも従業員からも選ばれる「答えられる組織」が待っています。
