
現代のビジネスにおいて、製品が「いつ、どこで、誰によって作られたか」という透明性の確保は、企業の存続を左右する必須条件となっています。欧州を中心としたデジタル製品パスポート(DPP)の導入や、製品ごとの二酸化炭素排出量を算出するカーボンフットプリントの要請は、日本企業にとっても無視できない大きな転換点です。本記事では、ESG投資や国際的な規制への対応、そして現場の廃棄ロス削減を同時に達成するための「流通データ基盤」の全体像を解説します。透明性を経営の武器に変え、持続可能な成長を実現するための具体的な実装方法と最新事例を詳しく紹介します。
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ESGは「理念」ではなく「要件」
製品の透明性を確保することは、単なる説明責任を果たすための活動ではありません。供給網に潜むリスクを特定し、無駄なコストや廃棄を削減するための経営をコントロールする仕組みとして機能します。本章では、世界中の企業にデータによる透明化が強く求められている背景とその本質を解説します。
サプライチェーンの透明性が「経営の制御装置」に
これまでの流通管理において、透明性は「あれば望ましいもの」という位置付けに留まっていました。しかし、現代の経営環境では、透明性は事業をコントロールするための不可欠な基盤へと進化しています。ここでいう透明性とは、単に「見える」ことではなく、根拠データの連鎖が完全に追跡可能であることを指します。具体的には、原材料の収穫から製造、出荷、入荷、加工、そして最終的な廃棄やリサイクルに至るまで、いつ、どこで、何が、誰によって、どのような状態で扱われたのかという情報の繋がりを指します。
このデータの連鎖が整っていると、企業は予期せぬトラブルに対して迅速に反応できるようになります。たとえば、特定の原材料に品質上の懸念が生じた際、どのロットの製品が影響を受けるのかを即座に特定できれば、回収の範囲を最小限に抑えられます。これは損失の回避だけでなく、ブランドの信頼性を維持するための防衛策でもあります。透明性は、複雑化したサプライチェーンを経営陣が正確に把握し、意思決定を行うための計器盤のような役割を担うようになりました。
ESGの要請は「要求事項」
ESG(環境・社会・ガバナンス)への対応が企業の評価を左右する中、求められる情報の粒度は年々細かくなっています。かつては企業単位の活動報告で十分でしたが、現在は製品一つひとつに紐付く詳細なデータが要求されています。この動向を象徴するのが、サプライチェーン全体の温室効果ガス排出量であるScope 3や、製品ごとの排出量を算出する製品カーボンフットプリント(PCF)の開示要請です。
算定の精度を高めるためには、業界の平均値を用いた推計ではなく、個々のサプライヤーから提供される実際のデータ、いわゆる一次データをどれだけ集められるかが重要です。さらに、欧州を中心に導入が進むデジタル製品パスポート(DPP)は、製品の耐久性や修理のしやすさ、再生材料の使用比率などの情報をデジタル上で提示することを求めています。これにより、企業は自社の製品が環境に配慮されている事実を、客観的なデータによって証明しなければならなくなりました。サステナビリティは抽象的な理念ではなく、厳格なデータの要件として企業の目の前に存在しています。
「見える化できないリスク」がコストを増大させる
実態を把握できていないということは、将来的に予測不能なコストを支払うリスクを抱えていることと同じです。環境負荷や廃棄の状態を把握できていない製品は、今後導入される規制や環境税の対象となった際に、多額の負担を強いられる可能性があります。不透明な調達ルートは人権問題や環境破壊などのリスクを内包しており、万が一問題が発覚した場合にはブランド価値の失墜だけでなく、取引の停止や融資の打ち切りといった致命的な事態を招きかねません。
早い段階で流通データの基盤を整え、見える化を実現している企業は、規制への対応コストを低く抑えることができます。高い透明性を備えていること自体が、ESGを重視する投資家や取引先からの選別において強力な競争優位性となります。将来の規制対応を単なるコストと捉えるか、市場での信頼を勝ち取るための投資と捉えるかによって、企業の将来像は大きく分かれます。
後戻りすることのない「透明性」への流れ
近年、欧州ではサステナビリティに関する報告義務やデューデリジェンスの要件について、企業の負担を軽減するために緩和や簡素化を検討する議論も報じられています。こうした一時的な制度の揺れがあったとしても、サプライチェーンの透明化を求める大きな流れが止まることはないでしょう。投資家や消費者は一度手に入れた透明性という安心を容易に手放すことはなく、市場アクセスを維持するための条件として定着しているためです。
制度の細部が変更されたとしても、製品のライフサイクルをデータで管理する能力は、国際的な取引を継続するための通行証であり続けます。企業が準備すべきなのは、特定の制度への場当たり的な対応ではなく、どのような規制の変化にも適応できる汎用的なデータ基盤の構築です。今後、透明性はビジネスにおける共通言語となり、対応できない企業は市場から取り残されるリスクが高まります。
透明性を実現する流通データ設計

透明性を実現するためには、高度なシステムを導入する前に、まず「どのようなデータを、どのようなルールで扱うか」という設計思想を固める必要があります。重要なのは技術そのものではなく、標準化された識別子とイベントデータの定義、そしてデータの品質管理です。本章では、流通データ基盤を構築するための技術的な要点を解説します。
イベント駆動型トレーサビリティ
トレーサビリティを実運用に耐えうる形で構築するためには、製品の動きを「イベント」として捉える考え方が不可欠です。いつ、どこで、何が、どのような状態で変化したのかを記録するイベント駆動型の設計により、複雑な流通経路を正確に再現できるようになります。このデータ交換の国際標準として広く活用されているのがEPCIS(Electronic Product Code Information Services)です。
EPCISを利用することで、異なる企業間でも同じ形式でイベント情報を共有できます。現場でトレーサビリティを導入する際、情報の粒度をどこまで細かくするか、例外的な処理にどう対応するかといった課題に直面することがあります。しかし、世界共通の標準ルールに基づいた設計を行うことで、既存システムとの連携が容易になり、データ連携のコストを大幅に削減できます。まずは「何を識別するか」というIDの定義と、記録すべき主要なイベントの特定から始めることが成功の第一歩です。
一次データの収集を支える製品ライフサイクル管理の設計
カーボンフットプリント(CFP)や製品ライフサイクルアセスメント(LCA)の精度を高めるためには、サプライヤーから直接得られる一次データの収集が欠かせません。このプロセスを支えるのが、製品の企画から廃棄までの情報を一元管理する製品ライフサイクル管理(PLM)の考え方です。製造工程におけるエネルギー消費量や原材料の構成情報をPLMに蓄積し、それを流通データと紐付けることで、初めて信頼性の高い環境負荷の算出が可能になります。
多くの企業が直面する壁は、サプライヤーに対してどのようにデータ提供を依頼し、その品質をどう担保するかという点です。算定方法に恣意性が含まれていれば、透明性の基盤は崩れてしまいます。そのため、国際標準であるISO 14067などの枠組みに則り、算定のロジックを共通化することが重要です。サプライヤーとの協力関係を築き、データ提供のメリットを提示しながら、段階的に収集範囲を広げていく粘り強いアプローチが求められます。
利益と社会価値を両立させる最新デジタル基盤
技術の進化により、透明性の確保とビジネスの効率化を同時に達成する手段が増えています。IoT(モノのインターネット)技術を活用すれば、温度や位置、稼働状況といった製品の状態を自動的に記録し、イベントデータに紐付けられます。これは特に、温度管理が厳格な食品や医薬品、あるいは安全性が重視される電池などの分野で非常に有効です。
また、複数の企業にまたがるサプライチェーンにおいて、データの改ざんを防ぎ、監査性を高めたい場合にはブロックチェーンが選択肢の一つとなります。さらに国内では、カーボンフットプリントなどの情報を安全に共有する「ウラノス・エコシステム」のようなデータスペースの構想が進んでおり、異なる企業やプラットフォーム間でのデータ交換が可能になりつつあります。こうした最新の技術を適切に組み合わせることで、データの信頼性と流通のスピードを両立させた次世代のデータ基盤を構築できます。
実装を成功に導くために
流通データ基盤の実装を成功させるためには、いきなり全ての製品で完璧を目指さないことが重要です。まずは以下の手順に従って、スモールスタートで始めることをお勧めします。
- 識別子の定義: 製品、ロット、場所を識別するための標準的なコードを割り振ります。
- イベントの記録: 製造、出荷、入荷などの主要な接点でデータを収集する仕組みを作ります。
- 証跡の管理: 収集したデータが正しいことを証明するための証拠書類やデジタル署名を整理します。
- データ品質の検証: 入力ミスやデータの欠落をチェックし、精度の高い情報を維持します。
- 情報の開示: 規制対応や顧客向けサービスとして、必要な情報を適切な形で出力します。
最初は、規制が厳しいカテゴリや、廃棄ロスが大きく改善効果が見込みやすい製品から着手するのが現実的です。段階的な導入によって社内に成功事例を作り、徐々に対象を拡大していくことで、組織全体のデータ活用能力を高めていくことができます。
廃棄ロス削減・再利用を実現するデータの力
透明性への投資がどのような利益として返ってくるのか、具体的な事例を通じて検証します。データの力は、事故発生時の迅速な対応、無駄な廃棄の削減、そして新たな循環型ビジネスの創出という形で、企業の競争力を直接的に高めます。
追跡時間を数日から数秒へ
世界最大級の小売チェーンであるウォルマートは、ブロックチェーン技術を食品トレーサビリティに導入し、象徴的な成果を上げています。かつてマンゴーの生産地を特定するのに6日以上を要していましたが、システム導入後はわずか2.2秒で完了するようになりました。この劇的な短縮は、単なる効率化以上の価値があります。食中毒などの事故が発生した際、汚染された製品を瞬時に特定して棚から撤去できるため、消費者の安全を守りつつ、問題のない製品まで大量に廃棄する無駄を回避できるからです。
また、フランスのカルフールは、製品のQRコードを消費者がスキャンすることで、農家の名前や収穫日、農薬の使用状況などを確認できる仕組みを展開しています。この取り組みは、情報の透明性を直接的な顧客体験に変え、ブランドへの信頼感を高めることに成功しました。透明性は裏側の管理ツールであると同時に、消費者に選ばれるための強力なコミュニケーション手段にもなり得ます。
廃棄ロスの削減で現場のオペレーションを変革
廃棄ロスの削減は、環境負荷の低減と利益改善が直結する領域です。世界の食品ロスの規模は、消費者向け食料の約19パーセントにあたる約10.5億トンにものぼり、その経済的損失は無視できません。この課題に対して、テクノロジーを活用して成果を上げているのがWinnow(ウィノウ)です。同社はホテルや外食チェーンの厨房で発生する廃棄物をカメラとAIで計測し、自動的に分類・定量化するシステムを提供しています。
あるホテルグループの事例では、廃棄の見える化を通じて、わずか数ヶ月で廃棄量を平均51パーセント削減することに成功しました。このプロセスのポイントは、単に捨てる量を測るだけでなく、なぜ捨てられたのかという原因をデータで特定する点にあります。仕入れすぎなのか、メニュー構成に問題があるのか、あるいは調理工程でのミスなのか。原因が明確になれば、現場は具体的な改善アクションを起こせます。データに基づいたオペレーションの最適化こそが、持続可能な運営には不可欠です。
循環型経済を実現するデジタル製品パスポート
製品を使い捨てにせず、再利用や再資源化を促進するためには、製品の構成に関する正確な情報が不可欠です。2027年以降に義務化が予定されているEU電池規則では、電気自動車(EV)や産業用電池に対して「電池パスポート」の導入を求めています。これには電池の構成材料や性能、リサイクル材の比率などの情報が含まれ、QRコードを通じて誰でもアクセスできるようになる予定です。
また、プラスチック包装などのリサイクルを高度化する取り組みとして、容器に目に見えないデジタル透かしを施す「HolyGrail 2.0」のような構想も進んでいます。自動選別施設において、カメラがこの透かしを読み取ることで、素材や用途に応じた正確な分類が可能になり、再生材の品質が飛躍的に向上します。製品にデジタルな身分証を持たせることで、廃棄物として捨てられていたものが再び資源として循環する道が開かれます。
今日から始めるために
流通データの基盤構築を単なるプロジェクトで終わらせないためには、日常の業務に組み込み、その成果を測定し続ける必要があります。今日から取り組むべき実務のポイントとして、以下のKPIを設定し、定期的に確認することをお勧めします。
- 回収リードタイム: 特定のロットを全拠点から特定し、回収するまでにかかる時間。
- 期限切れ廃棄率: 鮮度管理の不備によって発生する廃棄の割合。
- 一次データ比率: カーボンフットプリント算出において、推計値ではなく実測値を使用できている割合。
- ロット追跡成功率: 任意の製品から、その原材料の由来まで遡れる成功率。
体制面では、データの責任を明確にするデータオーナーの設置や、現場での入力作業を無理なく継続するためのルール作りが欠かせません。取引先を巻き込む際は、一方的な要求ではなく、データ共有による相互のメリットを提示することが重要です。透明性は一社だけで完結するものではなく、サプライチェーンに関わる全員で作り上げる資産です。
透明性を「未来への投資」に

流通管理における透明性は、避けては通れない経営のインフラとなっています。これは単に規制を守るためのコストではなく、供給網の制御性を高め、将来のリスクを回避するための投資です。成功の鍵は、特定のツールを選ぶことよりも、データの標準化、品質の確保、そして高い効果が見込める領域からの段階的な導入にあります。
トレーサビリティを確立することで回収の迅速化と顧客の信頼を勝ち取り、カーボンフットプリントや製品パスポートの整備によって、新たな循環型経済への参加権を手にできます。最初の一歩として、まずは自社のサプライチェーンにおいてリスクが高い、あるいは廃棄が多いカテゴリから、イベントデータの整備に着手してみてください。データの力で流通を再設計することが、持続可能な未来への確実な一歩となります。
【参考】Winnow “Impact Report 2024–25
